国技はスポーツか(ジャンルの鬼っ子もいいもんですぜ)
国技がすごいことになっています。相撲ファンの方にすれば憂鬱な日々を送っておられることと思います。今から30年くらい前にはプロレスファンのワタシも同じような憂鬱をかこっていたわけでしかもその憂鬱はさらに深かった、のであります。
なんせ大阪府立体育館や大阪城ホールへ足を運びますと小学生くらいの子供がパンフレットに載っている「本日のカード」を見ながら試合の展開を友達と先読みしているわけですよ。
「上田が乱入してシンの反則負けやな」「これは両リン(両者リングアウトで引き分け)やな」みたいなことを言っていてそのことごとくが的中してしまう。
「真剣勝負」が売り物のUWFにしてみても「高田伸彦対ボブ・バックランド」の結末がピンフォールで決まるとはだれも思っていなかったわけです。
勝負がはじめから決まってるものを見て何が面白いん?とプロレスを観ない人たちからはよく言われました。
そういうニセのスポーツに興じる自分がなんか嫌だったし、でも面白いものはしょうがないよなあ、という屈折した日々を若き日のワタシは送っていたわけです。
でも「ジャンルの鬼っ子」という村松友覗のコトバを知って自分の気持ちに整理がつきました。
子供にでも展開がわかる状況にあってお金をとって見せる試合がつまらないはずがないじゃないですか。
もちろんプロレスの試合そのものがスポーツ的な意味において「真剣勝負」であったのかといえばそれは違うでしょう。
ただ、筋書き通りにやっているショーであっても見て楽しめるものにするためにはプロの技術が必要ですしそのためのトレーニングも必要でしょう。映画や舞台の演技だって同じことです。
もし、プロレスのルールで真剣に勝敗を競ったならばあんまり面白いもんじゃないでしょうね。
相撲だって同じことであれはスポーツではなく「神事」なのですからスポーツ的な勝敗のつけ方をする必要はないでしょう。格闘技として相撲をとらえてしまえば体格のごつい力士が勝つのは当然のことです。昨今の外国人力士の台頭はスポーツとしての相撲の究極の姿であるのでしょう。
でかいやつが力任せに勝つだけならそんなの当たり前のことで何のカタルシスも感じませんよね。
「お前と俺の違いは、ただお前にチャンスが多かっただけだ」という長州力の叫びはたとえ用意されていたセリフだったとしても私の胸の中に残っています。それは映画や小説によってもたらされた感動と同質のものなのかもしれません。でも、そんなことはどうでもいいことです。
考えてみれば柔道整復というのもジャンルの鬼っ子なわけで医療のようでそうではない、という微妙なスタンスが私としては気に入ってます。医療の現場で柔道整復が役立つ、というのと柔道整復が医療として認められるというのは言葉の上で似ているようでも意味合いは正反対です。
現に私も医療の現場でクライアントを拝見していますが、柔道整復が医療である必要を感じません。医療人とやらになりたいのであればハナからほかの資格を取得すればいいだけです。業界あげて柔道整復を医療の一環に入れてもらおうという運動をやっていますがエネルギーを向ける方向が外れていますよね。
スポーツを目指す相撲、医療を目指す柔道整復、どちらも面白みに欠けません?
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